鳥居松本通り商店街の歴史

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鳥居松本通り商店街の歴史は古く、多くの遺跡があります。歴史を物語る文化財は時代を超えてわたしたちに引き継がれてきました。多くの人に鳥居松本通り商店街の文化財に触れる機会を持っていただきたくご紹介しています。

r1【鳥居松という地名の由来】
1822年に書かれた『尾張徇行記』によると昔、(小牧市)大山村に児(ちご)権現社の鳥居があったことから鳥居松という、とあります。 また一説には、田楽(たらが)(春日井市)にある伊多波刀(いたばと)神社の鳥居という言い伝えもあります。 どちらにしても鳥居とは関係があるようです。

r2【伊多波刀(いたはと)神社】
この神社は古くから格式の高い式内社で、平安時代の記録も残っています。 その昔、板面に鳩の絵を描いて神に奉納したことから「伊多波刀」の名がついたといわれています。内々神社とともに、この地方の旧県社で、古来味岡荘十七ヶ村の総鎮守であり、戦国時代から近世初頭にかけてこの地方の八幡信仰の中心をなしたものと考えられます。江戸時代、毎年旧8月15日の例祭に伊多波刀神社で行われた流鏑馬は「尾張名所図会」にも掲載されており、 郡内第一級だったと伝えられています。現在は、10月始めの秋祭りに流鏑馬(やぶさめ)が奉納されます。装束に身を包んだ厄年の男たちが弓矢を射り、神社の境内に屋台も並び、各町内のみこしも見ることができます。また、300m以上も続く参道の桜は見事で、市内の桜の名所の一つです。どちらにしても鳥居とは関係があるようです。

r1【鳥居松という地名の由来】
1822年に書かれた『尾張徇行記』によると昔、(小牧市)大山村に児(ちご)権現社の鳥居があったことから鳥居松という、とあります。 また一説には、田楽(たらが)(春日井市)にある伊多波刀(いたばと)神社の鳥居という言い伝えもあります。 どちらにしても鳥居とは関係があるようです。

r4【歴史の道=下街道】
下街道は、古くから善光寺街道とも呼ばれ、名古屋熱田天満町~勝川、鳥居松、坂下(内津)を経て、多治見、中山道へと通ずる商売、物流の道として栄えました。

◇本街道(上街道)と下街道◇
本街道(上街道)と下街道は東海道と中山道を結ぶ重要な街道として古くから利用されてきました。 本街道(上街道)は木曽街道、犬山街道などと呼ばれ、江戸時代初期に尾張藩の公道として三間幅に拡張改修され、味美、犬山などを経て中仙道と結ばれていました。 主に武士などの道として参勤交代などに使われていました。 しかしながら、本街道(上街道)は公道であるため、公用の荷物、役人の通行が優先され、また規則もやかましく、なおかつ距離が下街道筋より五里も遠く、山道が多い点、一般の旅人、商人、荷物はほとんどが本街道(上街道)を敬遠し、下街道を利用しました。

r5【明治天皇下原新田御小休所跡】
(郷土館敷地内) 明治天皇下原新田御小休所跡 明治13年(1880年)6月30日、明治天皇御巡幸の一行は、下街道を少雨の中、多治見から坂下に入られ、ご昼食の休憩をとられたのち、名古屋(名古屋別院)に向かわれました。 途中、鳥居松で休憩をとられたのがこの場所でございます。総勢450人の一行には、伏見宮貞愛親王(ふしみのみやさだなるしんのう)、太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)、参議伊藤博文、内務卿松方正義らの政府高官が参列していました。
{タッタッタッタ・・・・・騎兵隊が勢いよく通り抜けます。道には白砂が敷かれ、両側には竹が立てられ、しめ縄が張って有ります。沿道の家々は、国旗や提灯を掲げています。行列を人目見ようと、近くの村々から大勢の人が集まり、警官が必死に人垣の整理にあたっています。その中を菊の紋章の御旗に続き、天皇の馬車の行列が進んでいきます。人々はみな手を合わせ、これを拝んでいます。}

r6【観音様の由来】
我々土地のものは、普段、「お観音様」と親しみ呼んでおりますが、西国三十三番観音様と馬頭観音様が祀られています。西国三十三番観音様は文化七年(1810年)に祀られました。当時は、汽車も自動車もない時代で、四国三十三番の札所を徒歩で巡礼するのは2ヶ月も3ヶ月もかかり、また、旅費もかさみ一般のものでは容易に行かれるところではありませんでした。そこで、なんとかこの西国三十三番観音様をこの地に祀って、毎日お参りできるようにしたのがこの観音様(観世音菩薩)の始まりです。祀られた観音様(観世音菩薩様)は、(衆生の現実生活において遭遇するあらゆる災難と苦難が、ただ“菩薩”の名を唱えるだけで即座に救われる)と言われています。また馬頭観音様は、大正13年(1924年)に西国三十三番観音様とともに合祀されました。当時下街道は、馬車輸送が中心であり、また瀬戸、多治見等の陶器業界が隆盛になったため、交通の安全と商売の隆盛を祈念して馬頭観音を祀ったと言われています。また当時の鳥居松は善光寺まいりを初め庶民の往来が繁く、呉服店、宿屋、芝居小屋などたくさんの店が立ち並び周辺の村からの人手で賑わいました。

r7【郷土館の敷地内の俳人、横井也有の句碑】
横井也有は江戸中期(1702~1783)の有名な俳人で、尾張藩1,200石取りの重臣、名を時般(ときつら)といい、武芸にも優れる一方、仕官の時代から俳諧に親しみ、平家琵琶、謡曲、書画、詩歌に通じた教養人でありました。53才で退官、前津(現在のの名古屋市中区上前津)に隠棲いたしました。この地にゆかりの句{夜と昼の 目は色変へて 鳥居松}は、1773年秋(旧暦8月18日)午前2時過ぎ前津の自宅を籠にのって、この街道(下街道)をのんびりと内津へ旅した際に詠まれたものです。当時、也有は72歳とされ名著「鶉衣」(うずらごろも)の中の紀行文「内津草」にはこの句の他、内津までの道中諸所にゆかりの句を残しています。因みにこの句は自宅を出る時は暗かったのに、弁当を取るため籠から降り立ったらすでにあたりはすっかり明るくなっているのに驚いた様子を、地名に引っ掛けて詠んだ軽妙な句とはいえ、この先旅は大泉寺、坂下、明知、西尾、内津と続きました。